大正三年~
魚久初代の清水久蔵(しみずきゅうぞう)は奈良の出自でした。京都で料理修行を積んだ久蔵は東京日本橋へ渡り、大正三年には隣接する蛎殻町で高級鮮魚商「魚久商店」を開業します。
当時の日本橋東側は魚河岸と呼ばれ、日本橋川には鮮魚を積んだ船が行き交っていました。
また蛎殻町は米屋町と称され、大阪の堂島と並んで米相場を支配する商業の中心地でもあったのです。久蔵の仕入れる鮮魚は目利きの確かさで料亭などに卸され、多くの下働きの者が魚久商店を支えていました。
大正十三年~
大正十三年、魚久商店の一員として福島から働きに上がったのが、魚久二代目となる廣田年尾でした。
年尾は生来の生真面目さと器用さから下働きの中でも頭角を現し、久蔵の右腕として鮮魚の見極めや保存食となる粕漬の製法、日本料理などを学んでいきました。
年尾に嫁ぎ、後に魚久の名女将となる廣田トメと出会ったのはこの頃です。
昭和十二年、年尾は久蔵の遺志を受けて魚久商店を継承します。
昭和十五年~
鮮魚商の傍ら仕出し料理も出し、トメと共に店を大きく発展させた年尾は、昭和十五年に「江戸風割烹魚久」を開店させました。
鮮魚中心の会席料理は引きも切らないお客を招き、特に年尾が粕床の味にこだわって漬け込んだ粕漬けが味にうるさい米の仲買商の間で評判となりました。
遂には常連客から「魚久の粕漬けを土産にしたい」という声が高くなり、年尾が土産用に漬けた粕漬けは店に並べた先から瞬く間に売れて行ったのです。
昭和四十年~
満を持して昭和四十年、年尾は当時珍しい粕漬け専門店「京粕漬魚久」の暖簾を挙げるに至りました。魚久の冠に京粕漬と銘打ったのは、初代である久蔵への深い敬慕と魚久の粕床に用いた酒粕が京都伏見の銘酒であることが由来になっています。
また京粕漬魚久の主義を「旬を生かし、味を守る」と定めました。
これは旬魚の見極めから包丁の入れ方、粕床、 漬けまで終始一貫して職人の手技を味に生かし、日本料理の技を受け継ぐという年尾の思いが込められています。
昭和五十一年~
水天宮店を初店舗とした京粕漬魚久は昭和五十一年に四谷店を開店し販路を広げ、その三年後に人形町にも店舗を構え「京粕漬魚久」は地域の名物へとなっていきました。
そのさなかの昭和五十五年に社長を退任した年尾は、その後も魚久の粕漬けが多くのお客に愛され、求められて行く様を見届けて昭和六十一年に他界しました。
時は平成に入ると割烹料理店を現在の本店へ改築、同じ頃、より多くの方へ粕漬けを届ける思いで箱崎にあった製造工場を東砂に移し拡大、工場兼店舗をかまえます。そして渋谷店開店、切身加工専門工場を兼ねた平野店を加え、年尾の念願だった銀座店が加わり、魚久の味を広めていきます。
~現在
初代から脈々と続く味へのこだわりは代々引き継がれ、日本料理と粕漬けという食文化を次世代にも継承していきます。
今や全国の百貨店で目にするようになった京粕漬魚久の看板には、一枚の粕漬けに込められた人と人との絆と、その心で作り上げられた味の物語が秘められているのです。